個人が「GPT-2級のAI」を一から作った、という小さな事件

海外の開発者コミュニティで、ある個人プロジェクトが話題になりました。NanoEuler(ナノオイラー)という名前の、自作の言語モデルです。言語モデルとは、ChatGPTやClaudeのように文章を読んで続きを生成するAIの中身のことです。

何が驚かれたかというと、作った人が既製の便利な道具をほとんど使わず、CやCUDAという、コンピュータにかなり近い低い階層のプログラミング言語だけで、すべてをゼロから書いた点です。CUDAとは、画像処理用の半導体(GPU)に計算をさせるための仕組みで、AIの学習にはこのGPUが欠かせません。普通、AIを作る人は他社が用意してくれた巨大な部品(ライブラリ)を組み合わせます。それをあえて使わず、自分の手で一つずつ組み上げた、というのがこのプロジェクトの核です。たとえるなら、市販の電子レンジを買って料理を温めるのが普通のところを、回路から自分で設計して電子レンジそのものを作った、というくらいの違いがあります。

しかも目標は、いきなり巨大なものではありません。シェイクスピアの戯曲のテキストファイル1つから始め、2300万パラメータという小さな規模で「このモデルは何を理解できるのか」を観察していった、と本人は語っています。パラメータとは、AIが学習を通じて少しずつ調整していく無数のつまみのようなもので、この数が多いほど一般に賢くなります。参考までに、世の中で話題になる大規模なAIは数千億から1兆を超えるパラメータを持つとされ、2300万はその数万分の1にあたる極小サイズです。それでも、たとえば「Name:」という単語が行の先頭に来ると、その後に名前らしい文字列を意味の通る形で書ける、という振る舞いを獲得していた、というのです。小さくても、文章の規則性を確かに学んでいた、ということです。

一見すると、これは技術好きの個人による趣味の話です。実際そうとも言えます。けれど、非エンジニアの経営者や実務担当者にとっての本当の論点は、技術そのものではなく「AIを完全な魔法の箱として扱い続けることのリスク」にあると私は考えています。この記事では、低い階層のコードの話を、あなたの日々の意思決定に翻訳していきます。専門知識は一切前提にしませんので、安心して読み進めてください。

NanoEulerは結局、何をやったのか

まず、起きたことを噛み砕きます。NanoEulerの作者がやったことは、大きく分けると次の3つです。

1つ目は、文章を生成するAIの一番下の階層を自分で書いたこと。市販の部品に頼ると、内部で何が起きているかは見えません。作者は「llmと対話できることと、それがどう組み立てられているかを理解することは別だ」という問題意識から、あえて全部を手作業で書きました。これは、車を運転できることと、エンジンの仕組みを説明できることが別物なのと同じです。

2つ目は、小さく始めて段階的に育てたこと。最初から大規模を狙わず、小さなテキストとごく少ないパラメータで「この規模だと何ができて、何ができないか」を一つずつ確かめながら進めています。一気に完成形を目指すのではなく、毎回の変化を観察できる小ささを保ったのがポイントです。

3つ目は、対話できるチャットボットに近づける工程まで自分で踏んだこと。具体的にはSFTと呼ばれる工程に触れています。SFTとは、ざっくり言えば「お手本となる質問と回答のペア」を大量に見せて、AIの受け答えを整える追加の訓練のことです。素のままの言語モデルはただ続きを書くだけですが、この工程を経ると、人間の指示に答える助手らしい振る舞いに近づきます。新入社員に、良い対応例のマニュアルを見せて接客を覚えてもらうイメージに近いものです。

ここで大事なのは、作者自身が「小さい規模でも、AIをチャットボットらしくするための各ステップを理解するのに本当に役立った」と書いている点です。つまりこのプロジェクトの価値は、巨大なAIを作ったことではなく、AIという複雑なものを、誰でも観察できる小さな部品に分解して見せたことにあります。

なぜ「中身を少し知る」ことが、非エンジニアにも効くのか

ここからが本題です。あなたはCもCUDAも書きません。書く必要もありません。それでもこの話が無関係でない理由は、AIを使う側の意思決定が、結局この「中身の感覚」に左右されるからです。

たとえば、AIツールの料金を見て高いか安いか判断する場面を考えてください。多くの非エンジニアは、月額の数字だけを見て他社と比べます。けれど、なぜそのツールが高いのか、何にお金がかかっているのかを少しでも知っていると、判断の質が変わります。AIの費用は、突き詰めると「どれだけ大きなモデルを、どれだけの量のデータに対して動かすか」でほぼ決まります。NanoEulerが小さく始めたのは、まさにこのコストと性能の関係を体で理解するためでした。

これは経営判断と直結します。たとえば社内の問い合わせ対応を自動化したいとき、最高性能のAIを全件に使う必要は本当にあるのか。簡単な定型問い合わせは小さく安いモデルで十分で、難しい案件だけ高性能なモデルに回す、という設計ができれば費用は大きく下がります。実際、よくある問い合わせの大半は「営業時間は」「返品はできるか」といった定型で、ここに最上位のモデルを使うのは、近所のコンビニに行くのに高級スポーツカーを出すようなものです。この発想は、AIが「規模を上げるほど賢くなるが費用も増える」という単純な関係で動いていることを知っていて初めて自然に出てきます。

AIを魔法の箱と思っている人は「高いか安いか」しか議論できない。中身の関係を一行知っている人は「どこを大きく、どこを小さくするか」を議論できる。

もう一つ大事な視点があります。ベンダーや受託会社との交渉です。AIの仕組みを完全なブラックボックスだと思っていると、相手の見積もりや提案を鵜呑みにするしかありません。逆に、データの質が結果を左右すること、追加学習という工程があること、規模と費用が連動することを知っているだけで、見積もりの妥当性を問い、要件を絞る交渉ができます。たとえば「学習データはこちらの過去資料を使うのか、汎用のものか」「想定の処理件数と単価の根拠は」と一言聞けるだけで、相手の説明は具体的になり、不透明な上乗せは通りにくくなります。専門家になる必要はなく、相手と最低限同じ言葉で話せる状態を作るだけで、発注側の立場は大きく変わります。

業種別に見る「仕組みを知っている人」の強さ

抽象論だけでは伝わりにくいので、具体的な場面を3つ挙げます。いずれも、コードは一行も書かない非エンジニアの話です。

従業員30人の地域の工務店で、総務を兼任している方の場合。 見積書や工事報告書の下書きをAIに任せたい、という相談はよくあります。ここでブラックボックス発想のままだと、最も高機能で高額なAIプランを契約してしまいがちです。しかし「規模と費用は連動する」「データの質が結果を決める」という感覚があれば、判断が変わります。報告書のような定型文書は、過去の自社の良い報告書を数件お手本として見せる工夫(これは簡易的なSFTの発想です)で、安いプランでも十分な品質が出ることが多い。具体的には、よく書けた過去の報告書を3〜5件分、AIへの指示文に貼り付けて「この書式とトーンに合わせて」と頼むだけで、出力は一気に現場の言葉に近づきます。結果として、月額を抑えながら現場担当者の残業を減らせます。仕組みを知っているかどうかが、そのまま固定費の差になります。

10人規模のマーケティング会社で、ライターとして働く方の場合。 AIに記事の初稿を書かせると、当たり障りのない平均的な文章が返ってきて困る、という悩みは定番です。ブラックボックス発想だと「このAIは使えない」で終わります。しかし、AIは見せられたデータの平均を返す道具だと知っていれば、対処が変わります。自社の過去の良い記事や、狙う読者の具体像をお手本として丁寧に渡せば、出力は一気に自社らしくなる。たとえば「読者は経理担当の30代、専門用語に苦手意識がある」と一行添えるだけでも、語彙の選び方が変わります。NanoEulerの作者が小さなデータでもモデルの理解度が変わることを観察したのと同じで、与える素材の質が結果を決めるという事実を、現場の道具選びに翻訳できる人は強い。

従業員50人の食品卸で、経理を担当する方の場合。 請求書の内容チェックや、取引先からの問い合わせメールの一次対応をAIに任せたいとします。経理という業務は、間違いが許されにくい領域です。ここで仕組みの感覚が効くのは、リスク設計の場面です。AIは確率的に尤もらしい答えを返す道具であって、計算の正しさを保証する電卓ではない。この性質を知っていれば、金額の計算そのものはAIに任せず、文面の作成や分類だけを任せる、という安全な切り分けができます。具体的には「入金の催促メールの下書きはAI、金額の突合と最終確認は人」と決めておく。逆に何も知らないと、AIに数字の検算まで任せて事故を起こしかねません。どこまでをAIに任せ、どこからを人間が握るか。この線引きこそ、仕組みを少し知っている人にしか正確に引けない判断です。

3つの例に共通するのは、いずれも技術ではなく、お金と業務設計の話だということです。NanoEulerが見せてくれた「AIは部品でできている」という事実は、こうした日々の判断の質を確実に底上げします。

ブラックボックスを少しだけ開ける、実践手順

では、コードを書かない人が「中身の感覚」を持つには、具体的に何をすればいいのか。半日もあれば始められる手順を示します。

第一に、小さく試すこと。いきなり全社導入を狙わず、無料枠や安いプランで、短く完結する仕事を一つだけ任せます。NanoEulerがシェイクスピア一冊から始めたのと同じ発想です。たとえば「先週の議事録を3行に要約する」といった、失敗しても痛くない仕事から始めるとよいでしょう。小さく動かすと、AIが得意なことと苦手なことの輪郭が見えてきます。

第二に、お手本を渡して出力の変化を観察すること。同じ依頼でも、自社の良い成果物を数件添えるだけで結果が変わるかを確かめます。変われば、データの質が効くという感覚が体に入ります。お手本なしの出力と、お手本ありの出力を並べて見比べるのがコツで、違いが目で見えると納得が早い。これは追加学習の考え方を、契約も設定も変えずに疑似体験する方法です。

第三に、規模と質を比べること。多くのAIサービスには高機能版と軽量版があります。同じ仕事を両方にさせて、品質の差と料金の差を並べてみてください。差が小さいなら軽量版で十分、という判断がデータに基づいてできるようになります。逆に、難しい仕事ほど差が開くことも体感でき、「ここぞ」で高機能版に投資する判断もしやすくなります。

第四に、任せる範囲を線引きすること。文章の作成や要約、分類はAIに任せ、金額の検算や最終判断、対外的な確定は人が握る。この線引きを文書化して社内で共有すれば、事故を防ぎながら効率化できます。A4一枚の簡単なルールで構いません。「やらせること」「やらせないこと」を箇条書きにするだけでも、現場の迷いは大きく減ります。

特別なソフトは要りません。普段使っているAIツールの画面の中だけで、この4つは全部試せます。

注意点と、よくある誤解

ここで、勘違いしやすい点を整理します。

まず、この話は「AIを自分で作りましょう」という勧めでは全くありません。NanoEulerの作者は明確な目的と技術的背景を持った個人で、ほとんどの企業にとって、AIを自作することは時間の使い方として正しくありません。私たちが受け取るべきは、作る技術ではなく、AIが部品の積み重ねでできているという事実認識だけです。料理人の包丁さばきを学ぶ必要はなく、素材と火加減で味が決まる、と知っていれば十分なのと同じです。

次に、よくある誤解として「パラメータが多い高機能AIを使えば、必ず良い結果が出る」というものがあります。これは半分しか正しくありません。確かに規模が大きいほど一般的な性能は上がりますが、あなたの業務に合った結果が出るかは、渡すデータや指示の質に強く依存します。高いプランに変えても結果が良くならない、という不満の多くは、実は与える素材の側に原因があります。指示が曖昧なまま高機能版に切り替えても、曖昧な答えが少し上手に返ってくるだけです。NanoEulerが小さな規模でも意味のある振る舞いを獲得したのは、この点を象徴しています。

もう一つ、安全面の誤解です。AIは確率的に尤もらしい答えを返す道具であり、事実や計算の正しさを保証しません。もっともらしい嘘を自信たっぷりに返すことがあります。実在しない法律名や、それらしい数字を堂々と書いてくることもあるため、対外的に使う文章は必ず人の目を通す前提にしてください。だからこそ、前章で述べた「任せる範囲の線引き」が重要になります。AIの仕組みを少し知ることの最大の効用は、賢く使えるようになることよりも、どこで人間が止めるべきかを正しく判断できるようになることです。

最後に、コストの誤解です。AIは使えば使うほど費用がかかる従量制の側面を持つことが多く、全社員が無制限に最高機能を使う設計は、知らぬ間に費用を膨らませます。月初は安く見えても、使い慣れた頃に請求額が跳ね上がる、という事態は珍しくありません。規模と費用が連動するという感覚は、導入後の運用コスト管理でこそ生きてきます。

まとめ:作れなくていい、けれど中身は知っておく

NanoEulerという、個人がGPT-2規模の言語モデルをゼロから自作したプロジェクトは、技術的には専門的な話です。しかし、そこから非エンジニアが受け取れる学びは、驚くほど実務的です。

AIは魔法ではなく、データとパラメータと計算資源と追加学習という、いくつかの部品でできている。この一文を直感として持っているかどうかで、ツール選定の精度も、ベンダー交渉の対等さも、運用コストの管理も、事故を防ぐ線引きも、すべてが変わります。あなたがCを書く必要は一切ありません。けれど、相手と最低限同じ言葉で話せる状態を作っておくことは、これからAIを業務に組み込むすべての経営者・実務担当者にとって、確実に効く投資です。

NanoEulerの作者が小さなテキスト一冊から始めたように、あなたも小さな一つの業務から始めればいい。完璧に理解する必要はなく、部品でできていると知っているだけで、判断は変わります。今日からできるのは、たった一つの定型業務をAIに任せ、その出力をよく観察することだけです。

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